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浦和地方裁判所 昭和60年(人)1号 判決 1985年6月05日

請求者

甲野花子

右代理人弁護士

中野公夫

藤本健子

被拘束者

甲野梅子

右代理人弁護士

岡村茂樹

拘束者

甲野一郎

右代理人弁護士

須賀貴

主文

被拘束者を解放し、請求者に引き渡す。

手続費用は拘束者の負担とする。

事実

一  本件請求の趣旨及び理由は、別紙一<省略>記載のとおりであり、これに対する拘束者の答弁及び主張は、別紙二<省略>記載のとおりである。

二  疎明

疎明は、本件記録中の証拠関係目録記載のとおりであるからこれを引用する。

理由

一請求者と拘束者が夫婦であり(但し、現在浦和地方裁判所に請求者を原告、拘束者を被告とする離婚訴訟が係属中である。)、被拘束者が両名間の長女であること、昭和六〇年一月二二日当時、請求者が拘束者と別居し、被拘束者とともに東京都稲城市内のアパートに居住して同市内の保育園に被拘束者を通園させていたこと、同日早朝請求者が被拘束者を伴つて右保育園に登園しようとしていたところ、被拘束者が拘束者の直接行動により拘束者のもとへ連れ去られたこと、現在被拘束者が拘束者の肩書住居において拘束者により監護、養育されていることは当事者間に争いがない。

<証拠>によれば、被拘束者は昭和五六年三月三日生まれであることが一応認められるところ、この事実と右争いのない事実によれば、被拘束者は現在四歳になつて間もない幼児であつて、意思能力を有しないことが明らかであり、拘束者が被拘束者を自らのもとで監護する行為は当然に被拘束者の身体の自由を制限する行為を伴うものであるから、それ自体人身保護法及び同規則にいう「拘束」に当たるものというべきである。

二1  請求者が○○○美術大学に在学中、拘束者の経営する喫茶店でアルバイトとして働くうち、昭和五四年一月ころ、拘束者からの求婚を受け、その後の交際期間を経て、翌昭和五五年春結婚式を挙げたこと、請求者と拘束者が同年五月一五日婚姻の届出を了し、翌昭和五六年被拘束者が誕生した後、同年八月初旬ころから、拘束者の両親と同居するようになつたこと、右同居後間もなく拘束者とその両親との間で時として怒鳴り合いが行われたこと、昭和五八年二月、請求者から拘束者に対して離婚についての申出がなされたこと、翌昭和五九年春、請求者と拘束者は、被拘束者とともに浦和市内に転居したこと、同年九月二八日、拘束者は、請求者との離婚話の末被拘束者を伴つて家を出、同年一〇月六日まで帰宅しなかつたこと、その後、請求者が被拘束者を連れて請求者の実家に戻り、請求者と拘束者は別居するに至つたこと、この間、請求者は、浦和家庭裁判所に調停の申立てをし、同年一二月一四日第一回調停期日が開かれたことは当事者間に争いがない。

以上の争いのない各事実に<証拠>並びに弁論の全趣旨を総合すると次の事実が一応認められる。

(一)  本件拘束の状況及びこれに至る経緯

1 請求者は、○○○美術大学(実技専修科)在学中、友人の紹介で、東京都東村山市○○町にある喫茶店「ボン」でアルバイトとして働いていたが、昭和五四年一月ころ、その経営者であつた拘束者から求婚され、その後約一年余りの交際期間を経て、翌昭和五五年四月二〇日ころ、結婚式を挙げた。この間、請求者は、昭和五四年四月ころから昭和五五年一月ころまで東京都内の画廊などに勤務し、その後同年二月ころからは、拘束者が国鉄武蔵野線東所沢駅に近い埼玉県所沢市大字○○○に三階建の建物を新築し、その二階に喫茶店「ボン東所沢店」を開店した(以下、この建物を単に「『ボン東所沢店』の建物」という。)ため、そこで稼働した。拘束者と請求者は、昭和五五年五月婚姻の届出をし、「ボン東所沢店」の建物の三階を新居として生活を始め、翌昭和五六年三月三日には、両名の間に被拘束者が誕生した。拘束者と請求者の間では、結婚当初は、拘束者の両親(甲野春男、同春子。以下、関係者名は名のみによつて示すことがある。)と四、五年先に同居するとの話合いがなされていたが、同年六月ころ、拘束者から春男の身体の様子が心配である(同人は血圧が高く、昭和五四年春ころ、脳血栓で倒れたことがある。)から同居したいと申し出、請求者もこれを承知し、同年八月初めころから、拘束者の実家である拘束者肩書住居において同居して生活するようになつた。これに先立つ両名間の話合いの中で、両名が使用していた洗濯機や冷蔵庫などについて、請求者においては、同居するならば同じものは二つはいらないし、むしろひとつの電気製品を共用した方が早く仲良くなれ、共同生活になじめるとの理由で、重複するこれらの道具を人に贈ろうと考え、そのように拘束者にも述べたが、拘束者においては、もともと甲野家としては請求者の嫁入り道具が少ないことに不満をもつており、同居するに際して搬入する家具類が少ないのでは世間体が悪い、裸で嫁に来てほしいなどという両親の結婚前の言葉が建前にすぎないことは自明であるとして怒り、さらにタンスがこの中になくては拘束者の母春子が恥ずかしい思いをするというので、結局、これらの道具すべてを搬入したうえ、甲野家の費用でタンスを購入するという出来事があつた。

春男は、後記のとおり、有限会社甲野組として土建請負業等を営み、仕事を女婿である乙原夏彦に下請させるかたちでこれにまかせ、拘束者は、有限会社甲野組の取締役として名目上名を連らねてはいたものの、実際にはその経営に参画していなかつたのであるが、長男である自分の考えを取り入れるよう春男らに迫つたりすることもあり、同居生活が始まつて間もなくからこの問題や親子間での金銭上の問題にからんで両親(主として春子)との間で争い、時に怒鳴り合うようになり、そのうち、拘束者、請求者らは二階で、拘束者の両親は一階で、それぞれ別個の生活をし、往来をしないという状況に至つた。このため、拘束者と請求者は春男、春子との別居を考えていたが、昭和五八年初めころ、拘束者、請求者らが春男らと別に旅行に出掛けて戻つてみると、春男が再び脳血栓の発作をおこして入院していた。春男の入院中、拘束者、請求者と春子やその娘らとの関係は険悪な状況が続いたが、春男が同年二月ころ退院すると、突然に、拘束者が親と仲直りしたから以前のように暮らすようにと言い出したため、請求者は、それまでの不仲な状況から一変してこのように態度を変えた拘束者の心理を容認することができず、拘束者と口論となつたものの、結局、請求者が折れて、拘束者の両親との同居生活を継続することになつた。しかしながら、拘束者と請求者の関係は、拘束者の妹らの介入もあつて、次第に冷たいものとなつていつた。この間、拘束者、請求者ら夫婦は、前記喫茶店「ボン」の東村山店又は新秋津店で(時に同時に)営業をした。東村山店の方は、拘束者名義であつたところ、昭和五五年秋から昭和五八年初めまで他人に賃貸してあり、一時自ら営業したが、その後再び他人に賃貸してあつて、他方、新秋津店の方は、春男名義であつたため、拘束者と両親との仲次第で開けたり閉めたりする状況であつた。

2 昭和五九年四月末、拘束者が再び甲野組名義の財産の処分方法をめぐつてその両親と争い、拘束者、請求者及び被拘束者が家を出ることになり、同年五月初め、親子三人で浦和市○○に転居した。しかしながら、その後も、拘束者は、請求者の勧めるような地道な仕事をする意思を持たず、不動産の賃貸など大きな財産を扱うことで生計を立てようとし、請求者との考え方や生活感覚が著しく異なつていたこともあつて、両名の関係はむしろ疎遠になつてゆき、ついに、同年七月ころには、両名間の別居について話し合われるようになつた。

同年九月ころになつて、別居することについての話合いがいよいよ具体化し、同月二八日ころ、拘束者は、請求者に対し、父と娘ふたりだけで一緒にいられるのはもう最後だからなどと申し向けて、請求者をひとりで請求者の実家である丙山家へ帰し、その間に「卑怯な男です、梅子は連れて行きます、川口には帰りません、捜さないで下さい」という置き手紙を残して、被拘束者を伴つて家を出てしまつた。拘束者は、その日から約一〇日間、被拘束者を連れて三浦半島への旅行などをして過ごした。この間、請求者は、不安の中にも事態への対応を考え、浦和家庭裁判所へ相談に行くなどして離婚の意思を固めていつた。

同年一〇月六日ころの夜、拘束者は被拘束者を連れて帰宅し、請求者との間で話合いがなされたが、被拘束者の監護養育をいずれが行うかなどで争いとなり、拘束者は請求者に暴行を加えるに至り、請求者は、一旦逃げ出して友人方へ行くなどした。その後、請求者の父親も加えて話合いがなされたが、平行線をたどつたため、請求者は、同月一六日、浦和家庭裁判所に夫婦関係調整の調停申立てをした。一応同居している状態が続いていたが、請求者も拘束者もいずれもかたくなに自己の側で被拘束者を育てる旨主張し合ううち、困窮した請求者は、同月二一日、被拘束者を連れて請求者の実家へ戻り(その経緯は、同日朝、請求者は、拘束者に対し、被拘束者を公園で遊ばせる旨述べて自宅を出ると、一旦被拘束者を友人にあずけるなどして自宅に戻り、拘束者との間で互いに被拘束者を自分の方で養育すると言い争つたうえ、家を出たものであることが窺われる。)、請求者の父親から拘束者に対し、電話で請求者らが実家に戻つていることを伝えた。しかし、これに対する拘束者の応答振りから、請求者は、被拘束者を実力で取り戻されるのではないかと思い、翌朝には東京都府中市内にある従妹方へ身を寄せ、さらに、同月末ころ、東京都稲城市内にアパートを借り、同市立の保育園への被拘束者の入園手続を済ませ、翌一一月初めから同所での生活を始め、調布市内のハンバーガーショップで働き、月収一〇万円弱の収入を得て生計をたてるようになつた。被拘束者は、聰明で明朗な子供であるが、両親らの紛争に巻き込まれ不安定な境遇におかれたものの、次第に右保育園での生活にも慣れ、明かるさと安定を取り戻していつた。この間浦和家庭裁判所において、調査官による事前調査手続が行われ、請求者と拘束者はそれぞれ各別に事情を述べたが、こうした経過の中で、せめて被拘束者の声を聞きたいという拘束者の強い希望が伝えられたため、請求者は拘束者方に電話をかけ、被拘束者を電話口に出したけれども、被拘束者は一言、二言声を発しただけであつた。同年一二月一四日、同裁判所において、拘束者、請求者(被拘束者は保育園に行かせてあつた。)ともに出席して第一回調停期日が開かれ、次回期日を翌昭和六〇年二月八日と定められたが、拘束者は、期間が開きすぎている旨の手紙を同裁判所に出し、結局、昭和六〇年一月一一日に審問期日を開く旨決定された。しかしながら、拘束者は、右審問期日に出頭せず、間もなく、手を尽くして請求者の所在を探しあて、請求者らの生活の様子を窺つたうえついに、昭和六〇年一月二二日早朝、友人二人とともに前記保育園近くにおいて請求者らの登園を待ち伏せし、折から同保育園に登園途中の被拘束者を連れた請求者に対し、ひとりの友人をして道を尋ねるふうを装つて話しかけさせてその注意を惹く一方、他方の友人をして車の運転の準備をさせ、自ら請求者の背後にまわつて被拘束者をかかえると、一気に同車の後部座席に乗り込み、同車を発進させて被拘束者を拉致するに至つた。

その後は、拘束者は、肩書住居において、被拘束者を春子らの協力のもとに監護養育し、同年四月以降浦和市内の幼稚園に通園させている。

(二)  拘束者側の事情

拘束者は、昭和二〇年八月一〇日、甲野春男、同春子の長男として生まれたが、春男らがともに建設現場等で働いていたため、祖母の手で溺愛されて育てられた。中学生のころからは、春子らとともに生活するようになつたものの、同女との折り合いが悪く、家出を繰り返すこともあつた。拘束者は、短大卒業後一時会社勤めしたこともあつたが長続きせず、春男、春子らが自ら営むようになつていた土建業を手伝わせようとしたこともあつたが、これもまた長くは続かなかつた。春男は、昭和四二年からは有限会社甲野組として土建業を続け、事業の成功により一代で財をなしたけれども、長男である拘束者には跡を継がせることができず、結局、長女である秋子の夫乙原夏彦に実質的にこれを継がせるに至つている。拘束者の末妹である中野冬子は、一旦他家へ嫁いだが、昭和五七年ころ離婚し、現在は内縁の夫とともに東京都内でスナックを経営している。秋子、冬子と拘束者との折合いは、甲野家の財産承継等の問題が伏在していることもあつて必ずしもよくない。

春男は、当年六八歳で、前記のように昭和五四年春と昭和五八年初めに脳血栓で倒れたことがあり、活動がやや不自由である。春子は、当年六一歳であり、いくつかの持病で定期的に通院し、薬を毎日服用しているが、日常の起居自体には特別の不自由はない。

拘束者は、今後の生活について、いわゆる不労所得が種種見込めることから、日常の時間的余裕が十分にあるので、自らも被拘束者の面倒を見ることができると考えている。

(三)  請求者側の事情

請求者は、昭和二九年七月二日、丙山友男、同友子の長女として生まれた。友子は昭和五七年に死亡しており、請求者は、現在、肩書住居地の借家(家賃は月三万七〇〇〇円)で友男及び請求者の弟である丙山二郎と同居のうえ、東京都内の週休二日制の企業に事務員として勤務し、固定給として一か月手取り約一二万円の収入を得ており、これに加えて相当額の諸手当てを付加支給されている。さらに、請求者は、○○○美術大学実技専修科(三年制)で油絵を専攻し、その後、同大学実専研究課程(一年制)を修了しているものであるが、昭和六〇年三月、○○○○アトリエ○○○○インストラクター六〇年度研修を修了し、○○○○リトルランドの画室指導者として認定を受け、前記住居地において、近隣の子供たちに絵画指導をして副収入を得る計画をたて、その準備も進め、近々実施することができる見込みとなつている。

なお、丙山友男は、一時いわゆるサラ金などへの債務におわれ、昭和五九年五月には持家を売却し飲酒に耽る日々を過ごしたが、現在は埼玉県所沢市内で勤務し定収を得ており、また、二郎は、学校卒業後は東京都内の企業に勤務している。

請求者は、現在も知人や友人の精神的援助を少なからず受けつつ、今後の生活設計や被拘束者に対する母親としてのあり方について様々に思いをめぐらし、考えを深めようと努力している。

三以上の認定事実に基づいて判断する。

本件のように夫婦関係が破綻に瀕している場合に、夫婦の一方が他方に対し人身保護法に基づき共同親権に服する幼児の引渡しを請求したときは、その請求の要件である拘束の違法性は、幼児を夫婦のいずれに監護させるのが幼児のために幸福であるかを主眼として判定すべきであると解されるところ、本件被拘束者のようにいまだ四年三か月余の幼児にとつては、母親が監護養育の適格性や育児能力等に欠けるなどの特段の事情がない限り、母親のもとで監護養育されるのがより適切であり、その福祉にかなうものというべく、とりわけ被拘束者のような女児にとつては、物心がつきさらに成長してゆく当面の過程において母親の配慮ある監護と愛情とが何ものにも代えがたいものと考えるのが相当である。このような見地から、まず拘束者側の事情についてみると、前顕各証拠によれば、拘束者並びに春男及び春子の被拘束者に対する愛情にも並々ならぬものが窺われるとはいえ、前示の事実関係に照らすと、拘束者のみによる監護養育が被拘束者にとつて不十分ないし不相当であることは明らかであり、さらに、春男及び春子についてみても、それぞれ当年六八歳、六一歳と老齢であつて健康状態も到底万全とはいえないばかりか、いずれも拘束者自身との関係が必ずしも安定したものといいがたいうえ、とかく被拘束者を漏愛しがちであることが優に窺われるのであるが、これに対して、請求者の側の事情についてみると、前示のとおり、請求者は、着実かつ計画的に被拘束者の受入れ態勢を整えており、現状において既に、収入その他の物質的側面においても十分被拘束者を監護養育することのできる状況にあるということができ、さらに前顕各証拠によれば、被拘束者の監護養育のあり方について周到に思いをめぐらし、被拘束者のためになる監護を実現しようと努力していることが一応認められ、拘束者の主張するような適性上の問題点はこれを窺うことができない。被拘束者が、現在まで家庭内の複雑な紛争の中で育ち、拘束者と請求者とが別居するに至つてからは家庭外の社会との接触の場を含めて著しく異なる環境へと転々としてきたことをも考慮すれば、平静な家庭環境の中で育てられる子供に比して、より一層、一貫した正しいしつけと生活環境の平穏と安定とを必要とする時期にあるものというべく、これらの諸般の事情を総合考量すると、被拘束者は、拘束者のもとにおかれるよりも、請求者に監護されることの方が、その幸福を図るゆえんであることが明白であり、なお、本件拘束の開始が不穏当な手段によつたもので、かつ、その時期も前示調停の係属中であつたという点をも併せ考慮すれば、拘束者による被拘束者の監護は、拘束の違法性の存することが顕著な場合に当たるものと解するのが相当である。

四よつて、請求者の本件請求は理由があるから、これを認容して被拘束者を直ちに釈放し、人身保護規則三七条により被拘束者が幼児であることにかんがみ、これを請求者に引き渡し、手続費用の負担につき人身保護法一七条、同規則四六条、民事訴訟法八九条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官下村幸雄 裁判官河野信夫 裁判官松本光一郎)

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